ウグイス考 うぐいす色(鶯色)の歴史(1) TopNatureウグイス考

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 昔の人が間違えたのならその昔はいつごろ

現代のいわゆる「うぐいす色」が実際のウグイスの色ではないことを知った上で、その理由を「昔の人がメジロとウグイスとを間違えたが故に、メジロの色をうぐいす色と言うようになった」とする人がインターネット上では圧倒的に多いのです。どこかに書いてあったことを丸写しするのですが、『間違いが原因で物事が決まる』というパターンは印象が強いのでしょう、多くの人に好まれます。
本当は、間違った内容を鵜呑みにし、その間違いを正さないで踏襲する自分も間違いの担い手の一人であるにもかかわらず、「昔の人が間違えた」とするのです。
ウィキペディア(Wikipedia)のメジロの項で「ウグイスとの混同」としての説明文に
古来絵画にある「梅に鶯」の主題を見ても、間違えて「梅に目白」を描いてしまっている日本画家は数知れない。
とありました。鶯の絵を調べたことのない私はそんなに間違いが多かったかどうか知らないので、インターネット上の日本画のサイトで専門家にそのことを尋ねてみました。日本画の先生の答えは

「古来の絵画が間違えている」というのはどの辺の時代なのかが定かではありませんが少なくとも日本画というのは、明治以降の絵画ですから対象物を間違うというのは考えられませんねえ・・・・・
日本画の専門家は否定していますがウィキペディアでは「数知れない」のです。その後、ウィキペディアに「梅に目白」を描いてしまっている例がどれほど多いのか調べたのか、あるいはその様な調査結果のデータがあるのかを問いただしたところ、さすがに『数知れ無い』は気が引けたのでしょうか
<「梅に目白」を描いてしまっている日本画家は数知れない。> という表現は
<「梅に目白」を描いてしまっている日本画家も多い。> となりました。
しかし、結局「梅に目白」を描いてしまっている例を一つも示すことが出来ていません。

ウィキペディアの内容の真偽はさておき、日本画の先生の話に戻ります。
日本画というのは西洋画が入ってきてからの分類なんですね。日本画家は明治以降、それまでは絵師というのでした。話は脇道にそれましたが、日本画の先生ありがとう。「どの辺の時代なのかが定かではありません」との指摘、大切なことです。時代や場所の設定なしに事件を語るのは無責任。例えば、私が東京にいた頃、おばあちゃんの子供時代、こういう書き方だとそれほど正確でなくても何年から何年までおよそ見当が付きます。その頃世の中はどうだったか調べることもできます。「古来」とか「昔の人」では人類発祥から今日まですべてを含む表現です。人類共通の普遍的問題を論じる場合のみ有効です。もう一つのタイプは「昔あるところに」「昔々」これは時代や場所を特に設定しない御伽噺としての荒唐無稽論です。

ウグイスとメジロを間違えて描いている絵画が数知れない証拠はなかったのですが、日本画の先生の一言、回答が得られたというより問題点がはっきりしました。
「古来」とか「昔の人が」という表現があるのはそれだけでその文章がいい加減だとまでは言いませんが、不親切なものであることを証明しています。特に辞書辞典のたぐいはでは時代年代が不明の抽象的な昔という表現は禁物です。
でも、そんな不親切な内容でも「悪文は良文を駆逐する」であってはならないと思います。「昔の人がメジロをウグイスと間違えた」のならその昔とはいつ頃だったのでしょう。特定する必要があります。

 鶯色という表現は江戸時代にできた--飼い鳥の文化がもたらした庶民共通の色認識

鶯色(うぐいす色)と言う表現は江戸時代に定着した色名と考えられます。(逆に、それ以前にはなかった色表現です)当時、ウグイスを飼う、あるいは他の小鳥を飼うということが流行して、いわばペットブームの状態であったと言われています。(注1)
当然、八っつぁんも熊さんも横丁のご隠居さんの飼っている自慢のウグイスをよく知っていました。鶯色と聞けば艶のある茶色のウグイスの羽の色を思い浮かべます。鶯色はどんな色か説明はいりません。多くの人がウグイスそのものを間近で見て知っていたからです。鳥屋へ行けばウグイスやメジロはもとより、カナリアやインコも見ることができました。特にメジロは数多く飼われていました。大きな鳥かごの中のたくさんのメジロが止まり木に押し合いへし合いしてはみ出される様を見て、目白押しという子供の遊びが生まれました。今日でも「目白押し」と言う表現は当時のメジロの飼育の名残として用いられています。これほどまでに、ウグイスやメジロと接した人々は、野鳥を飼うことができない現代よりずっと身近に鳥を観察していました。ウグイスとメジロを間違えることは決してなかったし、後の時代にウグイスとメジロを間違えるなんて想像もしなかった時代に鶯色という表現を使い出したのです。ですから、この時代に鶯色と言ってメジロの色を思い浮かべると言うことはあり得ません。

ところで、どうしてこの時代に鶯色が出てきたのでしょう。それまでの時代に出てこなかったのはなぜでしょう。梅に鶯が成句になっていなかったとしても、ウグイスを聞くことは時代を超えて日本人の春の喜びであったはずです。鶯色は春のイメージではなかったのでしょうか。
そうなんです。鶯色はまったく春のイメージではありませんでした。(今でも鶯色は特に春のイメージではありません。春のイメージなのは黄緑系のニセウグイス色)ウグイスが春のイメージである所以はその高らかな、おおらかな、ほのぼのとした鳴き声にあるのです。じつは、鳴き声以外に姿をめでる人がいます。私もその一人なのですが、その姿は滅多に見られません。尾をピン斜め上に上げ幾分イナバウアー気味に反り返った姿、これがウグイスだ、体操のフィニッシュのような決まりのポーズで絵画にはよく登場します。藪から藪へ飛び回る一瞬にそのポーズは見られるのですが木々に邪魔され、暗がりに露出不足で写真に撮るのも難しいバードウォッチャー泣かせの一瞬なのです。この凛とした姿は飼い鳥の状態以外でははっきり見ることは難しいと思います。そして、その色も、つまり鶯色はバードウォッチする限りは藪陰での灰色っぽい茶色であったり、空を背景にした逆光であったりして美しいと感じ取れる状況で見ることはまずありません。ウグイスの羽色が美しく見えるのは太陽光の下ウグイスの背を見下ろす状態でなければなりません。飼い鳥の状態で見る以外、自然状態で人が目にすることはまずあり得ない状況です。
飼い鳥の観察なくしては鶯色も絵画的ウグイスポーズも簡単に手に入れることはできませんでした。
鶯色は春のイメージではなかったにせよウグイスが美しい茶色であると言う庶民における共通認識が用意されていたことが鶯色が世に出た理由のひとつと考えられます。そしてそのためには飼い鳥の文化は必須条件だったでしょう。

 奢侈禁止令と木綿地ファッション

鶯色が世に出たもう一つの理由は18世紀江戸の奢侈禁止令にあったと思います。
一般庶民の着物の布地は麻か木綿、絹は絹紬以外原則禁止、派手な色や豪華な刺繍は禁止で赤や紫の色は着用できなくなりました。その結果明るく華やかな色や柄が消え、灰色や茶色などの地味なものを若い女性でも身につけることを余儀なくされました。江戸時代でもファッションを求める乙女心は現代と変わらず、厳しい制限の中で辿り着いたのは渋好みのファッション、幾種類もの灰色や茶色の微妙なバリエーションが生まれ、細やかなニュアンスで美を演出するようになりました。それぞれに名前がつけられた茶色系の一つが鶯色でした。当時は鶯色とは言わず単に鶯、または鶯茶といって鶯の名のつく色は茶色一種のようでした。
「鶯茶」あるいは単に「鶯」は色としてのネーミングも素敵でこういう小粋な名前もファッションの一部であったろうと想像できます。鶯茶はこうして江戸時代のファッションカラーとなりました。
その後、江戸歌舞伎で絶大な人気を博していた2代目瀬川菊之丞が舞台で用いた茶色が、彼の俳号から路考茶の名前で流行します。菊之丞の人気の上に若い女性の間で爆発的流行を見た路考茶ですが、これをからかった川柳があります

「うぐひすといふて路考は染にやり」

路考はその舞台衣装を鶯茶にしてくれと染めに出したのに染め上がって見ると鶯茶とは違う色だったがこれが路考茶のもとだという句です。
川柳には批判や皮肉が込められているもので、その時代を想像して意味を考えないと表面的な言葉しか理解できません。この句の作者は路考茶の流行に「何でこんな品のない色がはやるのか」と悪趣味を揶揄する気持ちを句の裏に置いています。つまり、「路考はもっと品のある鶯茶を注文したんだよ。結果はケバケバした品のない茶色に染め上がりそれが流行しちまったけど」という意味を伝えたかったのです。実際、路考茶は派手な明るい茶色で、この色の着物はインパクトがあったと思われます。(路考茶で検索してみてください)
川柳に登場するようなことは多くの庶民に理解されていたことを裏付けます。このように鶯茶というものが本物のウグイスの色として庶民レベルで理解されていたので「昔の人がメジロと間違えた」との言いがかりは江戸時代には通用しないことがわかります。当時の江戸以外の地方でも、鶯茶や路考茶が伝わるときには反物や色見本を伴うので、誤った色(メジロ色のニセうぐいす色)が鶯色として伝えられることはなかったでしょう。またそれ以前、茶色の種類が多くなかった時代に鶯そのものが色名にはなっていなかったので江戸時代以前も色に関して「昔の人がメジロと間違えた」ので鶯色ができたと言う説は成立しません。

「昔の人がメジロと間違えた」説は少なくとも鶯色に関しては江戸時代とそれ以前ではないということが判りました。
「梅に鶯」のたとえについてもその成立は「昔の人がメジロと間違えた」ためではないことが明らかです。  → <「梅に鶯」は本当は「梅に目白」?>の章参照

江戸時代に「鶯」と呼ばれた茶色は、明治になって緑色を帯びた「鶯色」が登場することによってそれと区別するために「鶯茶」と呼ばれることとなります。
江戸時代に緑色を帯びた艶やかな鶯の背の色が流行しなかったか、どうして明治になってからかという疑問が残ります。

(注1)大江戸飼い鳥草紙 細川博昭 吉川弘文館