たとえ話の誤解あるいは無理解(梅に鶯)
 
 たとえ話やことわざは、間違った解釈をする人が多ければ、その解釈が主流となってしまうと言うことがあっても、進んで間違い説に加担しない方がよいでしょう。
 
たとえ話の文章
 
「たとえ」は簡潔に言うため述語部分など(〜のようなものだ)が省略される場合があります。
籔をつついて蛇を出す(さらに省略:ヤブヘビ)は「籔をつついて蛇を出すようなものだ」であって、「籔をつつくと蛇が出てくる」と言う意味ではありません。また、籔をつついても蛇は出てこない、蜂が出てくることの方が多いからヤブハチが正しいなどとするわけにもいきません。
同様、「梅に鶯」は「梅に鶯を合わせるようなものだ」というたとえです。あるいは「梅に鶯が来るようなものだ」としても大意は変わりません。
これを「梅には鶯が来る」と読んでしまうのは、「籔をつつくと蛇が出てくる」と同様の解釈で「〜のようなものだ」を抜かしてしまっています。
更に、梅に鶯は来ない、来るのはメジロだ。だから正しくは「梅にメジロ」だ。
こうなると、上の「ヤブヘビは間違い、ヤブハチが正しい」と同じ論法で滑稽です。
 
「猫に小判」=「猫に小判をやること」ではなく「猫に小判をやるようなものだ」あるいは「猫が小判を持っているるようなものだ」なのです。
「借りてきた猫」=「その人が借りてきた猫になること」ではなく「借りてきた猫のようなものだ」
「鶴の一声」=「社長が鶴になって鳴く」わけではなく「鶴の一声のような短い言葉で」決まるのです。
馬鹿にするなと言われそうですが、「梅に鶯」=「梅に鶯が来る」の解釈(〜のようなを付けない)だと上の例のようにまったく違った意味のおかしなことになる、と言うことが分かっていただけると思います。
 
もう一つ、たとえ話の成り立ち
 
「梅に鶯」を目にすることはまずない。この類のせりふはネット上随所で見られます。
たとえ話は実景でなくてよいのです。あるいは、実景であって目にする機会の少ないことであってもよいのです。本来、たとえ話は、そのことを目にするかしないかとは関係ないのです。
 
猿も木から落ちる  実景としてみた人は稀でしょう。
棚から牡丹餅    現実にあったという話は聞いたことがありません。
絵に描いた餅    ありそうですが見つけるとなると苦労します。いっそ自分で描いたほうが早い。
 
「梅に鶯」は間違いだ、とする人は言います。「梅に鶯」を目にすることはまずない。
「目にすることはまずない」この理由で否定するとたとえ話をたくさん否定しなければなりません。
私なんか「まな板の鯉」さえ見たことがないのです。たとえ話を否定するとなにかいいことがあるのでしょうか。あれは間違いだ、あれはウソだ。と揚げ足を取るのが楽しい?場合もあるかもしれませんが。 
たとえ話は「〜のような」を補うタイプが多いのですが、背景を知らないと意味不明のものもあり、辞書はこまめに引くべしです。例えば
「元の木阿弥」・・私の場合、意味は調べて判りましたが歴史的な部分は忘れました。
「ひょうたんから駒」・・将棋の駒?違います。
 
『梅に鶯、と言うが梅にウグイスは来ない』と言う人は、たとえ話の構文が理解できていないようです。国語力が低下しているのも「梅に鶯は間違い」説が広がる一因かもしれません。
 
 たとえ話は勝手に自分で意味を作らず、辞書に書いてある範囲の意味で使いたいものです
  
 梅の花に蜜を吸いに来たメジロを見て、梅に鶯だからこの鳥はウグイスだ、こんな乱暴な決定をする人が沢山いることがネットの中のブログを見るとよく分かります。はじめて見た生き物の名前を図鑑を調べることなしに決定してしまうのです。蝶を見ればアゲハ、トンボを見ればヤンマ、セミを見ればミンミン、バッタを見ればキリギリス。なんとお気楽人生。
     ウッソー! マジー? ヤベー! 
会話の多くの部分をこのような感嘆詞に近い単語で済ましてしまう人々の特技のようですが、国語力の低下は精神活動の軽量化に役立つのは確かです。
 
メジロこそいい迷惑。自分はウグイス色です、なんて言ったこともないのに、かってにウグイス色の鳥などと言われ、なんで??? 
 
(鶯色を調べない
鶯色はウグイスの色とするのがごく自然なのに、あえて鶯餅の色を鶯色と思い込む。
・・・・だって、みんなそう言ってるもん・・・・(皆が言っている訳でなくても、こういう人はそう言う)
梅に鶯の意味を調べない
「梅に鶯」という言葉は知っているが、これは「梅にウグイスが来る」ことと勝手に解釈
 
鳥の名前を調べない)
梅に来る鶯餅の色鳥はウグイスに違いない、だから、メジロはウグイスだ。
 
(スマホ、パソコン、電子辞書、手軽に調べる様々な手段がこれほど進歩しているのに、どうしてこんなに空っぽな人々がいるのでしょう。・・・・ふしぎ)
 
こうやって、メジロを発見するやウグイスだと騒いでカメラを向ける人は後をたたないようです。
この段階では「梅に鶯」が間違いだ、にはなりません、まだ自分の間違いにさえ気付いていませんから。三回も調べるチャンスを逃すなんて、よほど運の悪い人達です。(本当は別のところが悪い)
 
勿論、そんな人ばかりではありません。ウグイスだろうと一応思って調べるとこれがメジロだった。せっかく小鳥の名前が判ったのに、見当を付けたウグイスではなかった。なぜ?
「梅に鶯」が間違いだ
先の、メジロをウグイスだと思って、「今日はウグイスが群れでやって来ました(ウグイスは群れを作らない)」などとブログに書いていた人もいつかそれはメジロだと知るところとなり、
「梅に鶯」が間違いだ。
----昔の人が間違えた----
 
 調べることをしない短絡的判断や、自分の間違いを他者のせいにする発想は幼児大人の特徴。
 
ウグイス色、メジロの存在、いろんな理由で説明することは出来るでしょうが、自分の判断が間違ったとき他者のせいにする現象は幼児化の一つの現れです。単純な勘違いや判断の短絡、自分で物事を調べることをしない、なども同根かもしれません。
身体は成人、大脳には幼児混入、極端な人はモンスター○○と呼ばれます。
ウグイス考