----小池龍之介----「自分」から自由になる沈黙入門 より

ケチをつける

「この店、お茶は美味しいんだけど内装がイマイチだし、客がうるさいのが嫌だよね!」
カフェやレストランで。映画を観終わった後。
人ってやつは、いちいち何かに軽くケチをつけないと気がすまないようにできているのかも、しれません。
しかしながらそれを聞かされる側から見ると、どうなりますことか。
ケチをつけたくなる、という心理を仏教的に見てみると、「これにケチをつけられる私のセンスは、すぐれてるヨ」という裏メッセージを含んでおりまして、ケチをつける対象よりも自分を優位に見せたい、という欲望と結びついているのであります。
ゆえに、ケチをつける相手についておしゃべりをしているように見えて、実は自分のことを語っている。
ここにも「ジブン」が大量に入って、自分濃度が濃くなっているのであります。
さらに悪いことには、直接自慢するかわりに他のものにケチをつけてこっそり、間接的に自慢しているわけでありますから、イヤラシイ。本人が意識するとせざるとにかかわらず、周りが興ざめする、周りに嫌がられる、のは自然な成り行きと申せましょう。仏道では「ヨクボー」「イヤイヤ(怒り)」「マヨイ」を三毒といって戒めます。
「ケチつけ」をするときは、まず心がみだれ(マヨイ)、不快になり(イヤイヤ)、自慢したくなる(ヨクボー)というように、すべての毒が出揃っています。
ゆえにその心を反映して、本人の雰囲気にそれ相応の醜さがにじみ出てしまうもの。
そして文句ばかり言う人は、実は、ケチがつけられている対象にどっぷり依存している。
なぜなら、欲も怒りも、対象がないとつくれない感情でありますから。
お酒を飲みながら現在の政権や官僚の悪口ばかり言ってクダを巻いているオジサンがいたとして、政権が崩壊したら、一番困ってしまうのは、そのオジサン。
本当はご主人様に依存している奴隷は、ご主人様に隠れて、ご主人様を裏切ったり悪口を言ったり、ケチをつけたりする。
そのことによって、奴隷という堪え難い状態の中でも、ご主人様よりも精神的に優位に立とうとしてしまう。
・・・まさにこうやって、奴隷は満足して、いつまでも、奉仕してゆくことが可能になります。
適度にケチつけをして、矮小なプライドを後生大事に守りながら。
他人や社会にケチをつけている人は、自分のプライドを守ろうとして、結果としては自分をチンケな人間として印象づけ、心ある人からは敬遠されることになってしまいます。一日だけでも、まったく何かにケチをつけずに過ごす努力をされてみることをお勧めします。
それがいかに難しいかは、挑戦してみればすぐにお分かりいただけるかと思います。
ケチつけの回数を減らすだけで、その人の雰囲気には気品のようなものが漂ってくるもの。